2011年9月30日 (金)

AIRJAM2011

 9月18日、午前10時。僕は娘と二人、横浜スタジアムに着いた。友人が招待してくれた「AIRJAM2011」に来たのだった。
 招待券をリストバンドと引き換えた後で、安い駐車場探しや飲み物調達のために、周辺をウロウロした。スタジアムの外周を取り囲むようにしていた入場待ちの行列にも驚いたが、近辺のコンビニ前にたむろする人々の多さも相当なものだった。
 11時の開演に合わせてスタジアムに入り、まずは3塁側の外野スタンドにある招待者用席に、娘と並んで座り、眼下に広がる人々を見た。それだけで、僕は今日ここに来た意味があったし、もしかするとこの第一印象はずっと、僕の心を占めつくしてしまうかもしれない、と思った。そして実際、僕はずっと、ひとつのことだけを考え続けていた。
 東日本大震災の発生以来、テレビやインターネットで様々な映像を見てきた。その一片がハッキリと思い出された。
 ちょうど、僕と娘が座っている外野スタンド中腹のあたりから、あの時、東北・太平洋沿岸に住む人々が、津波に飲み込まれようとする街に向かって、大声で叫んでいる映像だ。早く逃げろという声、ただ眼前の光景が信じられず「あぁー」と嘆く声。
 僕らがいる招待者席はまだ日差しも強く、ほとんど観客がいなかったけれど、アリーナとその他のスタンド席には、そのときでも恐らく2万人近い人がいたのではないかと思う。3月11日の震災発生当日からその日まで、僕はこれほど多くの人の集まる場所に来たことがなかった。
 現在までに報道されている震災による死者は1万5000名以上、行方不明者は4000人近いという。
 僕は思わず、アリーナから視線を上げ、スタンドに座る人々へもグルリと周囲を見渡した。そこに集う人々の表情、服装、動きが、遠近入り乱れて目に入ってくる。雲ひとつない空の下で、どこにでもフォーカスを合わせることができる。そして―。
 この震災で失われた命の数とは何なのか。そう考えると慄然とした。それまで「数え切れない」「未曾有」などとアタマのどこかに追いやっていた現実を突きつけられた気がしたのである。
 横に座る娘は持参した水筒からガブガブと水を飲み、スナック菓子をほおばっていた。

 オープニングアクトの磯部正文BANDの演奏が始まるとすぐに、アリーナの人々が波を打ち始めた。その波の上をステージに向かって、何人かが流されていく。クラウドサーフィングとはよく言ったものだ。ステージ手前の柵を越えると、両腕を突き上げながら観客の前を横切り、また人々の中へ戻っていく。それを何度も繰り返し、人々の波はやむ事がない。
 友人から事前に用意しておくように言われた耳栓を娘につけさせた。それでも初めて全身に感じる大音量に、娘は手を叩き、足を鳴らして、僕に笑顔を見せた。
 正直、僕にとってもどれもが初めて聞く音楽ばかりで、次々に出てくるバンドの中にはいいなぁと思うものも、そうでないものもあった。ただ、周囲の人々をじっと見続け、僕が今ここにいることの意味は確信に変わりつつあった。
 2時間もしたら、娘は飽き出した。これは親バカに違いないが、昔から娘は飽きてもグズることはない。そばにいさえすれば、テキトーにやりすごすことができる性格だ。食事をしたり、バックヤードで昼寝をしたり、メッセージボードを書きに行ったり、夕方近くになってフェイスペインティングを予約したりした。子供連れの観客のために、主催者側が配慮してくれた仕掛けをふんだんに利用させてもらった。
 開演から約8時間、すでに日も暮れ、招待者席も満席になり始めていた。娘のリミットも近いと思ったが、頬に描いてもらったエアジャムのロゴを、誰かに見てもらいたいらしく、それとなく誇らしげにしていた。
 BRAHMANの演奏が始まった。観客は恐らく3万人を超えていたのではないだろうか。僕の頭の中をめぐっていたのは、ずっと同じことばかりだった。
 ボーカルの男性が、ステージからアリーナの人々の波へ身を任せた。そして上半身を起こし、訥々と話し始めた。その内容に誰もが叫んだ。僕も叫ばずにいられなかった。ありふれた賛否の表明ではなく、ただ叫んでいた。その時、僕は幽明はひとつになったかもしれないと思った。

 もちろんウソまみれの原発から、放射能は、その日も終日、僕らの頭上に降り注いでいたことだろう。時折、僕の前を通過する若い人々が曝す刺青の肌に目をやりながら、自分の娘の行く末を思ったりもした。
 そのときばかりは、それらがどうでもいいことのように思えた。

 いよいよHI-STANDARDがステージに現れた。場内の熱気が完全にピークを迎えたとき、娘の口から「早く帰ろう」という呟きが僕の耳元にもれた。終演まであと30分かそこらだろうと思った。しかし、来場から9時間、今に至るまで、娘が「帰ろう」と言ったのはそのときだけだった。
 帰ろうと言って、帰れない子どもたちが、かの地には今もどれくらいいるだろうか、と僕は思った。そしてそこには、そうしてやれることのできない親も同じだけいる。
 だから帰ることにした。決して明るくはないかもしれない未来が、必ずしも僕のせいだとは思わないけども、もしも背負うことが可能な「責任」とやらがあるのだとすれば、子供にしてやれるのはこのくらいしかないかもしれない。
 その瞬間、会場を去っていく者は誰一人いなかったろう。スタジアムの外周にも人が溢れ、漏れ聞こえてくる曲に合わせ、皆が大声を上げていた。
 僕ら親子に悔いはなかった。つないだ娘の手は明らかに眠い熱を帯びていたが、会場を出たとたんに笑顔を取り戻し、また来ようねと言った。
(このエントリはしばらく推敲を続けるつもりでいます)

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2011年9月 1日 (木)

「きゃりーぱみゅぱみゅ」の衝撃


デイリーポータルZ

ブログネタ: 【賞品付き】もう若くないと感じた瞬間は?参加数

 こういう形で記事を書くことはなかったけど、最近これもまた本論とは別に「もう若くない」と感じることのひとつとして、なんでもスラスラ書くことができなくなってしまって、今更ながら練習のつもりで色々なお題に挑戦してみることにした。

で、せっかくなので【賞品付き】のにしてみた。しかもiphoneから入力。

 実はそもそも、自分が年をとったとか、おじさんになったという自覚が、僕にはあまりない。それは決して心身が若々しいということでなく、人生経験が浅薄だというコンプレックスの為だと思っている。だから、周囲の同世代が、「もう若くない」と口にする度に、自分も年齢だけはそうなんだ、と気づかされるという具合だ。

 そんな僕だが、先日、あるメールマガジンを受け取った時に、ちょっとショックに感じることがあった。内容はごくごくくだらないゴシップなのでどうでもいいのだが、そこに取り上げられていた「きゃりーぱみゅぱみゅ」という人のことを全く知らなかった。その完全な知らなさ加減に愕然としてしまったのである。

 テレビをはじめとしたメディア関係のことで知らないことなどいくらでもある。しかしそれらは、これからブレイクするとか、一部で大人気というようなものであって、別段気にすることもない。

 もちろん、あやしいメルマガのやることだから真偽を問題にする気はないが、「きゃりーぱみゅぱみゅ」にそんな過去が、という内容にニュース価値があるのだとすれば、その前提として、何かひとつでも彼女に対する情報を持っていなければならない。

 僕は完全なテレビ中毒だから、今まで心の中でだけは、そういうことを大抵知っている自信があった。別に何かをコメントできるレベルではないんだけど、「あぁ、あれね」と内心でつぶやくくらいのことはできるつもりだった。

 でも「きゃりーぱみゅぱみゅ」については、本当に想像の欠片も浮かばなかったものだから、だいぶ長くなったけど、「もう若くない」と思い知らされたのでした。

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2011年8月31日 (水)

どうでもいい「油断」

 久しぶりのブログ更新で恐縮だが、まぁこのことは書いておこうかなと思った。

 とても世話になった人が病に倒れ、転院のための送迎を引き受けた。その人とは党派の別なく(と言ったところで、現在の僕に特段配慮する党派性はないのだが)政局のことや、社会情勢について語り合っていたので、政権与党の代表選挙が行われるというその日は、車のラジオをつけっぱなしにしていた。

 正午をはさんだ時間に、野田の演説があった。僕はタイトルどおり、どうでもいい「油断」をしていて、彼が選ばれるなどと思っていなかったものだから、「ん?」と違和感を感じた演説内容を聞き流すつもりであった。

 野田佳彦は司馬遼太郎・藤沢周平・山本周五郎といった作家の時代小説から政治を学んだと言った。
 僕は油断していたから、それは別にいいんだけど、と思ったのだが、首相になるんなら、ちょっと話が違う。
 野田に限らず、政治家に明治期以前の人物やエピソードを取り上げる場合が多いように思うが、彼らは「民主主義」というものをどう考えているのだろう。
 夢や志や人情、まぁそんな言葉を並べ立てるけど、民主主義は尊重すべきだと思っているのだろうか。
 それとも「名君の親政」みないなことを、今さら理想にしているのだろうか。

 もちろん今後の実態を見ていかなければ、どうでもいいことだけれども。

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2011年3月19日 (土)

震災メモ3

 快癒した娘が、翌日の卒園式を楽しみにしている水曜日、今度は僕のインフルエンザが発症し、40度近い熱にうなされていた。

 突然だが、皆さんは「女王」という文字をワープロに出すために(あるいは音読するときでも良いのだが)、キーボードにどのように打ち込むだろうか。

 公民館の事業で、近所の人にパソコンを教えていて、この単語にぶつかり、僕は「じょおう」という読み方以外にない、と確信していたのだが、「じょうおう」というように打っても「女王」と変換されるし、しかも年配の生徒さんの中には「じょうおう」が正しく、「じょおう」など聞いたことがない、という人がいる。コレには驚いてしまって、帰宅後すぐにネット検索を始めた。これでも僕は国語で高校教員の免許を持っている(笑)。

 それを調べているときに出会ったのが「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」というブログで、読みすすめていくうち、僕はこのブログの大ファンになってしまった。

 いささか回りくどい紹介になってしまったが、インフルエンザの間に僕が書こうと思っていたことが、このブログには載っているので、ぜひおすすめしたい。特に官房長官が仙石でなくて良かった、というのと、石原の妄言はカルト教団のそれと何ら変わりないというのは、まったく同じことを書こうとしていた。

 最近のエントリでは「庄内拓明」さんの、身内の方が、この震災で亡くなられたという記述もあった。
 ご冥福をお祈りします。

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2011年3月15日 (火)

震災メモ2

 僕の住む地域では、今日も停電はなかった。
 娘がインフルエンザ療養中なものだから、終日、一歩も外へ出ずにいた。食事も娘が消化のいいモノしか食えないから、僕もおにぎりとうどんだけで付き合った。もらった柚子があったので、その汁とお湯と蜂蜜を混ぜて、二人ですすった。

 福島第一原発の状況がクローズアップされることに、どうにも違和感をおぼえてしまう。いよいよ施設内の放射線量が人体に影響の出るところまで漏れてしまったようだし、20キロ圏内の住民に避難指示も出た。弁の開閉や、注水や消火といった作業に携わる人々の苦労もいかばかりかとは思う。

 しかし、原発から遠く離れたわれわれが今、思いをいたすべきことなのだろうか。
 プロ野球選手が練習試合やキャンプを切り上げたそうだ。横浜や千葉で。ホントかよ、と思ったが、まぁそうできるならすればいい。

 何しろ外へ出ていないから、明日あたりスーパーやガソリンスタンドがどうなっているのだろうかと思うと憂鬱になる。行列に並ぶ気はまったく起こらないし、もしかすると品物と行列がともに姿を消しているかもしれない。

 家にあるものを食い尽くしたら買出しに出ようかと思うが、それでは間に合わないだろう。モノはないし、被爆するし。
 とにかく順序が違う気がして、今。何かを「備える」気になぞならない。

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2011年3月14日 (月)

震災メモ

 東京電力は、慇懃無礼である。いわゆる「計画停電」の不手際など、僕らに対しては、まだ謝罪に及ばないことだ。もちろん後でキッチリ落とし前をつけてもらうが、今はまだいい。その効果がいささか疑問だが、関東・首都圏の停電が被災地のためになるなら、いくらでもやればいい。我々に頭を下げる時間があれば、すぐにでも被災地の電力復帰と、原発の事故について謝罪に回ったほうがいい。東京電力の全力を挙げて、被災地を支援すべきだ。金でいい。大企業が足並みを揃えて3億円を拠出しているから、その10倍くらいがいい。
 原発の事故は、明らかにこの大災害の中で、焦点をブレさせる、「お荷物」の事象になってしまっている。もちろんその事故によって避難生活を強いられる人々のことを言っているのではない。原発の事故があるが故に、取るべき対策の本質が伝わらなくなっているということだ。
 認識に違いがあれば指摘してもらいたいが、電力不足は恐らく、地震によって被災地の原発が安全に自動停止しても、起こったことだろうと、僕は推測している。福島の原発がそうできなかったことで負い目のある東京電力が、順序付けを間違えている。その弱みに付け込むように、報道陣が東京電力広報部を追い込んだところで仕方ない。
 原発事故→計画停電の流れが、今は家も職場も家族も失っていない我々を「にわか備蓄」に走らせた。ガソリンスタンドやスーパー、ホームセンターの行列を見るたび、被災地の分を我々が食い潰してしまうのではないかという妄想に襲われる。
 東京電力は必要とあれば、すぐさま突発的な停電に踏み切るべきだ。そしてそれに対する猛烈な批判を一身に受け止めるべきだ。
 誰にもその覚悟がないことが一番の問題だ。
 TBSが今、計画停電の予定だったのに、〝停電がなかった〟千葉市の上空を飛ぶという愚行を垂れ流している。
 そのヘリで救える命もある。

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2010年3月16日 (火)

忘れ得ぬこと

 僕もまた、小学校2年生のときのことだったと思う。
 珍しく我が家に、祖父母を招き、両親と僕と5人が集まり、夕食を共にしていた。
 何がきっかけだったのか忘れたが、僕は泣きながら、自身が置かれている状況と、小学校で味わっている雰囲気を、告白し始めた。
 1ヶ月くらい前に、近所の砂場で遊んでいて、年上のK君が持っていた「アッグガイ」のプラモデルを壊してしまったのだ。
 K君は弁償しろと言った。もちろん僕にそんな金はなく、親に言い出すこともできなかった。

 それからと言うもの、学校へ行くと、K君が教室にやってきて、アッグガイの話をし始める。廊下や昇降口ですれ違うと、K君がジロっとこちらを睨みつけてくる。
 もう学校へ行きたくない。僕は多分、両親と祖父母への告白を、そう締めくくったと思う。

 すると親子2代、男女各2名が口をそろえて、「もっと早く言えばよかったのに」と、僕を慰め始める。
 翌日、新しいアッグガイと、もうひとつのモビルスーツを買い、父と二人でK君宅を訪ね、謝罪した。

 僕にとって幸福だったのは、K君がこのことを「子供のケンカに親が出る」というお決まりの曲解で処理せず、翌日からきちんと話をしてくれるようになったことだった。これはどちらに転んでもおかしくないことだった。
 子供同士のハナシを親にチクった僕を排除することもできたはずだった。でもK君は、僕より1年先に卒業するまで、決してそうしなかった。

 ある報道、例えば週刊文春によれば、2月下旬、同じような告白が赤坂のある家で、少女の口からこぼれた。彼女はそれを侍医に漏らしたというのだから驚いた。
 様々な経緯があったにせよ、それが3月5日に宮内庁の記者会見によって明らかにされるというのは、やはりどう考えても異常と言わざるを得ない。
 僕と彼女のシチュエーションや出自の違いを最大限に考慮したとしても、想像し得ないことだ。

 偶然は、日曜の夜、何の因果か現在の我が家に訪れた。
 家内の実家で夕食を終え、自転車で帰宅する途中、5歳の少女の口からある告白がこぼれた。
 線路脇を走っていたのと、とても小さな声だったのとで、よく聞き取れなかったが、どうやらウチの娘が幼稚園に行きたくないと言い出しているようだ。
 自宅に戻り、聞いてみると、先週の金曜日に、何かの事情で「ねんどのフタ」を担任の先生に没収されてしまい、それが月曜日にどうなるか不安だ、と娘は泣き出した。
 詳細はわからないものの、没収になった理由を、娘はいくらかわかっているらしく、つまり何か悪さをしたようだった。
 僕と家内は、いろいろと言葉や態度を尽くしながら、結局は「仕方ない」と「大丈夫」という二つのキーワードで、その夜から翌朝、幼稚園の門前で別れるまでを娘と過ごしたような気がする。
 数時間後、帰宅した娘によれば、彼女は意を決し、朝イチで先生に謝り、すると先生は何事もなかったように許してくれたのだという。
 帰宅した娘の第一声は「モヤモヤがスッキリしてよかった」というものだった。

 僕はと言えば、昨夜の娘の告白以来、ずっとアッグガイのことを思い出し続けていた。

 いつか一度は言われそうな気がする。
 もし子供が「学校へ行きたくない」と言い出したら、「行かなくていい」と答えるか、首に縄をつけてでも学校へ引っ張っていくか、どちらかだろう。そして、どちらも結果は同じだと思う。

 そんなこともずっと考えていた。

 もうひとつのことを思い出した。
 家内の実家の便所か居間か、仏間だったか、とにかくどこかの柱に貼ってある短冊の文句「子が親になり、子が親になり」。
 それが、それだけが真理だと断言できる。

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2009年12月16日 (水)

それはそうと

ついでにもうひとつ。

この本にチョコっと原稿を書きましたので、太陽が沈まぬうちに立ち読みしてください。

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年末進行

 夏からやっていた原稿が12月はお休みになってしまったので、仕事的には「年末進行」など何処吹く風になってしまったが、育児のほうでは色々と恒例の行事もあるのでバタバタしている今日この頃。
 皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 一つ目の年末進行。
 5才の娘が「魔法のペンダント」をクリスマスに欲しがるものだから、先ほどサンタからの断りの手紙を枕元に貼り付けておいた。
 我が家では、僕だけがサンタの電話番号を知っていて、この時期マメに連絡を取り合うことになっている。

 まず11月ごろに「何が欲しいのかをパパに教えてあげてください」という1通目が、娘に突如届く。
 そうすると娘はクリスマスモードに入り、駅前のイルミネーションやら、テレビのCMやら、自宅のクリスマスツリーの設置に腐心するようになる。

 やがて12月に入る頃、娘はプレゼントを決め、僕を通じてサンタに申請する。ただしインフルエンザの予防接種をバーターにして。

 注射の後、かくしてイヴには娘にプレゼントが届き、父母は「わぁよかったね」と猿芝居。これで年末は終わったようなものである。

 あとはもうひとつのバーターである「おかたづけ」カードをちらつかせて、大掃除に任務を与えておけばよい。

 ところが今年の娘の申請が「魔法のペンダント」だったので弱った。
 ドコで売ってんの?と聞いたら、サンタはプレゼントを「買う」ようなことはしないから、お前(パパ)には関わりないことだ、メッセンジャーに徹しろ、という口ぶりである。

 というわけで、今年は異例の2通目が娘に届き、プレゼントは第2候補の「瞬足」と提案した。

 まだ幼稚園の貴様に魔法を使わせるわけにはいかん、というのが、サンタの断りの理由としてある。

 ハリーポッター(観たことも読んだこともないけど)に発想を得た。

 明朝、娘の回答を待つことになる。

 普天間の移設場所が決まるのが先か、娘のプレゼントが決まるのが先か、はたまたM-1チャンピオンは誰になるのか、気忙しい師走も残すところ2週ちょっと。

 

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2009年8月 3日 (月)

悲惨な戦い

 あの日に書こうと思いながら過ぎてしまったことだが、衆議院解散直前のフニャプク「懇談会」とやらで、麻生太郎が涙ぐんだ、あの発言の意味するところは、まぁそりゃ8割方、芝居に違いないだろうけども、それにしても僕は慄然とするところがあった。
 麻生が涙ぐんだときの発言はこうだ

 「わたしの願いは一つであります。是非,ここにお見えの衆議院議員の立候補予定者は,全員揃って帰って来ていただくことであります。そのために,我々は一致結束して戦う以外にありません。」

 鳥越俊太郎も翌日のテレビで指摘していたが、確かに口ではそう願っていると言いながら、実は目の前の衆院議員のほとんどが戻ってこられないことを麻生は知っている。いや、誰でも知っている。自民党はまさに死屍累々の選挙になるに決まっているのである。だから鳥越は、麻生は本当に涙ぐんでしまったのだ、とコメントしていた。僕はその真偽には何の関心もないが、解散後の記者会見で、「勝敗ライン」の質問を受けて、激高している麻生を見て、愕然とした。

 「選挙で負けた話を前提にして質問、ということに私が安易に答えることはできるとお思いでしょうか。(ここでブチギレ)選挙今から戦うんですよ。」

 兵卒には(もちろん議員が兵卒だというのは誤った置換であるが)帰りの燃料もないような特攻を涙ながらに強いておいて、国民には断固戦うのだ、と虚勢を張る。
 これは猪木の有名なアナウンサービンタ事件のパクリか、そうでなければ間違いなく「いつか来た道」ではないか。しかし数十年もすると、そういう指揮官がもてはやされたりもするのだ。いつか麻生が死んだ後に日記など発表されて、その時の薄っぺらい苦悩が、さも美談のように語られたりもする。事実、中川秀直の握手なんかまるっきしそれに沿ったアングルである。

 まさに悲惨な戦いであり、あの麻生の涙は真偽のほどに関係なく、この国の歴史にとっても絶望的な涙だったのだと言える。権力はまだそんな馬鹿馬鹿しいフィクションを根っこに持っているのか、と恐ろしくなった。
 

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