AIRJAM2011
9月18日、午前10時。僕は娘と二人、横浜スタジアムに着いた。友人が招待してくれた「AIRJAM2011」に来たのだった。
招待券をリストバンドと引き換えた後で、安い駐車場探しや飲み物調達のために、周辺をウロウロした。スタジアムの外周を取り囲むようにしていた入場待ちの行列にも驚いたが、近辺のコンビニ前にたむろする人々の多さも相当なものだった。
11時の開演に合わせてスタジアムに入り、まずは3塁側の外野スタンドにある招待者用席に、娘と並んで座り、眼下に広がる人々を見た。それだけで、僕は今日ここに来た意味があったし、もしかするとこの第一印象はずっと、僕の心を占めつくしてしまうかもしれない、と思った。そして実際、僕はずっと、ひとつのことだけを考え続けていた。
東日本大震災の発生以来、テレビやインターネットで様々な映像を見てきた。その一片がハッキリと思い出された。
ちょうど、僕と娘が座っている外野スタンド中腹のあたりから、あの時、東北・太平洋沿岸に住む人々が、津波に飲み込まれようとする街に向かって、大声で叫んでいる映像だ。早く逃げろという声、ただ眼前の光景が信じられず「あぁー」と嘆く声。
僕らがいる招待者席はまだ日差しも強く、ほとんど観客がいなかったけれど、アリーナとその他のスタンド席には、そのときでも恐らく2万人近い人がいたのではないかと思う。3月11日の震災発生当日からその日まで、僕はこれほど多くの人の集まる場所に来たことがなかった。
現在までに報道されている震災による死者は1万5000名以上、行方不明者は4000人近いという。
僕は思わず、アリーナから視線を上げ、スタンドに座る人々へもグルリと周囲を見渡した。そこに集う人々の表情、服装、動きが、遠近入り乱れて目に入ってくる。雲ひとつない空の下で、どこにでもフォーカスを合わせることができる。そして―。
この震災で失われた命の数とは何なのか。そう考えると慄然とした。それまで「数え切れない」「未曾有」などとアタマのどこかに追いやっていた現実を突きつけられた気がしたのである。
横に座る娘は持参した水筒からガブガブと水を飲み、スナック菓子をほおばっていた。
オープニングアクトの磯部正文BANDの演奏が始まるとすぐに、アリーナの人々が波を打ち始めた。その波の上をステージに向かって、何人かが流されていく。クラウドサーフィングとはよく言ったものだ。ステージ手前の柵を越えると、両腕を突き上げながら観客の前を横切り、また人々の中へ戻っていく。それを何度も繰り返し、人々の波はやむ事がない。
友人から事前に用意しておくように言われた耳栓を娘につけさせた。それでも初めて全身に感じる大音量に、娘は手を叩き、足を鳴らして、僕に笑顔を見せた。
正直、僕にとってもどれもが初めて聞く音楽ばかりで、次々に出てくるバンドの中にはいいなぁと思うものも、そうでないものもあった。ただ、周囲の人々をじっと見続け、僕が今ここにいることの意味は確信に変わりつつあった。
2時間もしたら、娘は飽き出した。これは親バカに違いないが、昔から娘は飽きてもグズることはない。そばにいさえすれば、テキトーにやりすごすことができる性格だ。食事をしたり、バックヤードで昼寝をしたり、メッセージボードを書きに行ったり、夕方近くになってフェイスペインティングを予約したりした。子供連れの観客のために、主催者側が配慮してくれた仕掛けをふんだんに利用させてもらった。
開演から約8時間、すでに日も暮れ、招待者席も満席になり始めていた。娘のリミットも近いと思ったが、頬に描いてもらったエアジャムのロゴを、誰かに見てもらいたいらしく、それとなく誇らしげにしていた。
BRAHMANの演奏が始まった。観客は恐らく3万人を超えていたのではないだろうか。僕の頭の中をめぐっていたのは、ずっと同じことばかりだった。
ボーカルの男性が、ステージからアリーナの人々の波へ身を任せた。そして上半身を起こし、訥々と話し始めた。その内容に誰もが叫んだ。僕も叫ばずにいられなかった。ありふれた賛否の表明ではなく、ただ叫んでいた。その時、僕は幽明はひとつになったかもしれないと思った。
もちろんウソまみれの原発から、放射能は、その日も終日、僕らの頭上に降り注いでいたことだろう。時折、僕の前を通過する若い人々が曝す刺青の肌に目をやりながら、自分の娘の行く末を思ったりもした。
そのときばかりは、それらがどうでもいいことのように思えた。
いよいよHI-STANDARDがステージに現れた。場内の熱気が完全にピークを迎えたとき、娘の口から「早く帰ろう」という呟きが僕の耳元にもれた。終演まであと30分かそこらだろうと思った。しかし、来場から9時間、今に至るまで、娘が「帰ろう」と言ったのはそのときだけだった。
帰ろうと言って、帰れない子どもたちが、かの地には今もどれくらいいるだろうか、と僕は思った。そしてそこには、そうしてやれることのできない親も同じだけいる。
だから帰ることにした。決して明るくはないかもしれない未来が、必ずしも僕のせいだとは思わないけども、もしも背負うことが可能な「責任」とやらがあるのだとすれば、子供にしてやれるのはこのくらいしかないかもしれない。
その瞬間、会場を去っていく者は誰一人いなかったろう。スタジアムの外周にも人が溢れ、漏れ聞こえてくる曲に合わせ、皆が大声を上げていた。
僕ら親子に悔いはなかった。つないだ娘の手は明らかに眠い熱を帯びていたが、会場を出たとたんに笑顔を取り戻し、また来ようねと言った。
(このエントリはしばらく推敲を続けるつもりでいます)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)



最近のコメント